Extra Episode



其の一

「『いのししあつこ』命名秘話」



ガラガラーッ



朝、茜木 温子は茜木鮮魚店のシャッターを勢いよく押し上げる。

「おはよう温子ちゃん」

隣の店のおばちゃんが声をかけると、

「おはようございます!」

温子も元気よく挨拶を返した。

「さて、今日も一日がんばるぞー!」

意気込む温子に、

「ちょっと温子。ここで何やってるんだい!」

温子の母、早苗が驚き混じりの口調で言った。

「何って、お店の準備だけど?」

さも当然と温子は答え、その返答に早苗はため息をついて、

「まったくこの子は・・今日から学校だろう」

呆れて早苗が言うと、

「いっけなーい!!そうだったわ!」

あたりに響く程の大声でそう言い、家に向い走り出した。

「いったい誰に似たのやら・・」

走り去る温子に向かって早苗はやれやれ、と首を左右に振った。



「何で入学式の後が休みなのよ。おかげでまだ春休みだと思っちゃったじゃない」

学校に向かって走りながら温子がぼやく。

途中の長い上り坂を息を切らせながらも駆け上がり、急いで角を曲がる。

しばらく走り、温子と同じ制服を着た学生が歩いている横を通り過ぎていても温子は走ることをやめずに走りつづけた。

やがて温子は学校に着く。

遅刻にはなりそうも無い余裕を残して到着したにもかかわらず、温子はまだ走りつづけ、階段を駆け上がった。

「何で一年生は一番上の階にあるのよ!」

またもやぼやき、廊下を歩く同級生の横を走り抜け、温子のクラスの教室へ向いT字路を曲がる。

「どいてぇーー!!」

曲がったすぐ先にいた生徒に向かって大声をあげる。

「えっ!?」

次の瞬間、



がぁあ〜〜〜ん



振り返った生徒をなんとか避けた温子は、廊下に置いてあった掃除道具が入っているロッカーに思いっきりぶつかった。



「おっ・・目が覚めたみたいだな」

保健室のベッドに仰向けで気を失っていた温子を覗き込む二人のうちの先ほど温子が廊下で走り抜けた方が言った。

「あれ?ここは?」

額に乗っている水で湿らせたハンカチを手で押さえながら温子は上半身を起こしながら言うと、

「ここは保健室ですわ」

もう一人の温子とぶつかりそうになった方が答えた。

「私、なんでこんなところにいるんだっけ?」

温子が少しふらふらしながら言うと、怪我の具合を見ていた温子とぶつかりそうになった方が、

「私とぶつかりそうになって、あなたが何とかぶつからないように避けたのですけど避けた先にあったロッカーにぶつかってしまったのですわ」

状況を説明した。

「そういえば自己紹介がまだだったな。私は立唄 旋花、偶然通り掛かって気絶したあんたを運ぶのを手伝ったんだ」

旋花の名乗りに続き、

「私は季村 杜宇子、先ほども言ったようにあなたとぶつかりそうになったものですわ」

杜宇子も名乗った。

「私は茜木 温子、ごめん・・二人には迷惑かけちゃったわね」

謝る温子に杜宇子は、

「まったくですわ!危うく私も怪我をするところだったんですから」

怒りをあらわにする杜宇子に旋花が、

「まあ、落ち着きなって、結局ぶつかることはなかったんだからさ」

なだめるように杜宇子に言った。

「それもそうですわね」

杜宇子もあっさりと納得する。

「それで?別に遅刻になりそうでもなかったのにどうして狭い廊下を走っていたのかな?」

旋花は落ち着きを取り戻した杜宇子を確認してから温子に向って言った。

その問いかけに温子は戸惑いをあらわにしながらも説明をした。



「あはは!なんだよ、それ、途中で気付かなかったのかよ」

旋花が豪快に笑いながらそう言うと、

「ほんと、それではまるで、猪じゃありませんか」

杜宇子が静かに微笑む。

温子は何か反論したいものの、全くそのとおりなので何も言えずに固まっていると、

「そうですわ。これからは温子さんのことを『いのししあつこ』って呼びましょうか」

杜宇子の提案に旋花が、

「ああ、温子にぴったりのあだ名だな」

何度も頷き賛同した。

「ちょっとなによそれ、私は認めないわよ!」

激しく否定する温子を放って、

「さあ、『いのししあつこ』さんも元気になったことだし、教室に戻るかな」

旋花が『いのししあつこ』の部分を強調して言いながら立ち上がる。

「そうですわね。早く行かないとチャイムが鳴ってしまいますわ」

杜宇子も続いて立ち上がる。

「ねえ、ちょっと、私は認めないわよ。ねえ、聞いてる?」

温子はそう言いながら二人を追いかける。

すると、前に進みながら二人は振り返り、

「わかってるって、冗談だよ」

旋花が言い、

「本当にもう言わないんでしょうね?」

温子が問い掛けると、

「ええ、時々にしておきますわ」

杜宇子がクスクスと笑いながら言った。

「時々じゃなくて、絶対にダメだって言ってるでしょ!」

温子の訴えは、走り出した二人に届いていないようだった。



その後も事あるたびにそのあだ名で呼ばれるようになり、途中で温子が約束させた、「『いのししあつこ』と言うたびにパフェをおごる」というものもまったく効果がなかったようだ。



其のニ

「一歩踏み出すだけのことで・・・」



「いらっしゃい!いらっしゃい!今は鯖が旬でおいしいよー!」

秋が旬の鯖を手に、茜木鮮魚店の店先で元気よくその店の娘である温子が客寄せをする。

親が勝手に組んだ結婚の話を断った温子の悩みはすっかり消え去り、この夏に出会った彼とのいつかの再会に向けて仕事に励んでいた。

「じゃあ、その鯖を一つください」

「はい!わかりま・・・って、澄香さん!!」

振り返った先にはニヶ月前に東京へ帰った山川 澄香の姿があった。

「久しぶりね、温子ちゃん。言ったでしょ意外とすぐ会えるかもって」

「確かに言ってましたけど、会社はどうしたんですか?」

温子は袋に入れた鯖を渡し、代金を受け取りながら問い掛ける。

「会社?辞めちゃった」

澄香がさらっと言い、

「ええっ!!やめちゃったんですか!!」

温子が驚き、大声をあげる。

「うん、思い切っちゃった」

澄香は温子の大声にも動じずに微笑んだ。

「でも、どうして辞めちゃったんですか?」

落ち着きを取り戻した温子が理由を聞くと、

「私ね、小説家になろうと思ってたんだ。だけど、今まで会社を辞める決心がつかなかった。でも、温子ちゃんのおかげで思い切って一歩踏み出すことが出来たの」

澄香は嬉しそうに言って、

「でもまだ小説家になったわけじゃないいんだけどね」

そう付け加えた。

「じゃあ、なんで函館に?」

「それはね・・私の最初に書く小説の舞台を函館にしたかったから、その資料を集めるためにこうして函館に戻ってきたの。それに、温子ちゃんにも会いたかったしね」

温子の問いかけに澄香は答え、

「それでね、こんな話はどうかしら?函館の朝市の鮮魚店で働く女の子が仕入れの途中に旅行に来ていた男の子とぶつかってから、その男の子とよく会うようになって次第に恋に落ちていく話なんだけど、どうかしら?」

嬉々として語る。

「えっ!それって、もしかして・・・澄香さん見てたんですか?」

「さあ?何のこと?私は何も知らないわよ」

動揺する温子を澄香はきょとんとして見ている。

「だってそんなに詳しく・・・」

ぼやく温子に澄香は、

「じゃあ、お互いがんばりましょうね。それと、温子ちゃんの彼、なかなかカッコ良かったわね」

去りながらそう言った。

「やっぱり見てたんじゃないですかー!!」

朝市全体に響くほどの声で温子が言うと、

「ごめんねー!声かけるタイミングが見つからなかったのー!」

温子ほどではない声量で答え、人ごみにまぎれて見えなくなった。

澄香が去っていった方向を見ながら温子は、

「澄香さん・・変わったなぁ・・」

姿は変わらないけど物怖じばかりしていた澄香の雰囲気が無くなっていた。

一歩踏み出すだけ・・それだけで何かが変わっていく・・澄香さんも・・私も・・

「よーし、じゃあ、せっかく踏み出した一歩を無駄にしないためにもがんばらなくっちゃね」

温子は元気よく客寄せを再開する。